夫と車に乗っているとき、ラジオから「五番街のマリーへ」という古い歌が流れてきました。
この歌に登場するマリーと主人公の関係について夫と意見が違ったという、どうでもいい話ですが、よかったら読んでください。
「五番街のマリーへ」
「五番街のマリーへ」はペドロ&カプリシャス(ボーカルは高橋真梨子)が1973年にリリースした曲です。
47年前、古いですね。
作詞は阿久悠、作曲は戸倉俊一です。
歌詞は、
「五番街に行ったら、昔一緒に暮らしたマリーを訪ね、今どうしてるのか見てきてほしい。
もし結婚して幸せになっているなら、寄らないでほしい。」
こんな感じの内容です。
恋人?娘?
私は、マリーとは昔の恋人だと受け取りました。
かつてはいろいろあったけれど、いまは幸せに暮らしているのか気になっている、という歌だと思いました。
ところが夫は、マリーは自分の娘だというのです。
わけあって離れ離れになってしまい、どんな暮らしをしているのかわからない娘の今を知りたい男の歌だと。
え~違うんじゃない?と言いましたが、夫は引きません。
呑気な男
私がマリーは娘ではないと思った理由は、
「悲しい思いをさせた それだけが気がかり」
という歌詞が、高みからものを言っている感じがするためです。
悲しい思いをさせたことだけを気にかけてるって、子ども育てることの大変さを全くわかっていないんじゃないの?
なんだか、昔の思い出や、マリーを心配する自分に酔っている感じもする。
こんな呑気なこと言う男は父親じゃないと思ったのですが。
私の辞書にはロマンという言葉はないくらい現実的な人間なので、こんな見方をするのかもしれません。
百歩譲って、マリーが恋人あるいは妻の連れ子であったとするなら、まだ納得できます。
血のつながりはないけれどマリーに懐かれ、家族として楽しく暮らしていたのに、自分たちの別れによってマリーとも別れざるを得なかった。
悲しい思いをさせたね、というならわかる。
だけど実の父親じゃないでしょう。
でも実の父親が無責任男だったら、こんなアホなことを言う可能性もあるのかな?
考えれば考えるほど、わからなくなりました。
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おそらく、ですが、作詞家の阿久悠は、恋人とでも娘とでもとれるような書き方をしたんじゃないでしょうか。
聞く人によって好きなように解釈できるよう、どっちだとはっきりわかる言葉を慎重に避けたような気がします。
恋人だ、娘だと言いあうことこそ、阿久悠の思うつぼだったりして。
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